甲府のじーさん
その日、僕は尿意を覚えて目を覚ました。
いつもやかましい目覚まし時計に叩き起こされている僕にとって、それは珍しい事であった。
目を開け、視界に映った風景もまた見慣れたものではなかった。
普段ならば6畳程の狭い部屋で目覚めるものだから、いつもは迫りくるような壁に、手の届きそうな程低い天井が見える。だがこの時は違った。
目覚めた場所はいつもの狭い部屋ではなかった。
そこは甲府駅の広い広い駅の構内だった。
朝一で山へ登る為、僕は駅構内で野宿をしていたのである。
独り暮らしをしている僕にとって朝目覚めて直ぐに人と出会うことはまず無い。
だがこの時はいつもと違っていた。
トイレに行こう、そう思って立ち上がり、荷物をまとめていた時だった。
1人の見ず知らずのじーさんがこちらにヨチヨチ歩み寄って来たのだ。
その時、僕はエレベーターの傍にいたものだから、てっきりじーさんの目的はエレベーターだと思っていた。
が、実際は違った。
じーさんは僕の目の前で立ち止まり、
そして訪ねてきた。
「兄ちゃん、これからどこへ行くんだ?北岳か?お?」
「いや、北岳じゃなく、こう…こうぶ?(あれ名前なんだっけ…)」
じーさんはウキウキした顔でじっと僕の言葉を待っている。
「こうぶ…こうぶ…(名前がでてこねぇ…」僕は頭をひねりにひねり、これから目指す山の名前を思い出そうとした。
「こうぶしん……!!たしか、こうぶしんげんだけだ!!」
正確には甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)と言うのだが、この時の僕はその名前を忘れてしまっており、”こうぶしんげんだけ”という訳の分からぬ名前を口走ってしまっていた。
「こうぶしんげんだけ?いやぁ~知らねぇな…」じーさんは首を傾げながら答えた。
この時、じーさんは頭の中で、僕の言った聞いたことも見たことも無い山を山の麓から見上げていたことであろう。
だがじーさんは直ぐその山に背を向けた。
そしてじーさんの世界はいきなりぶっ飛び、次の瞬間には頭の中で、熱い熱気と歓声の中、狭いリング上で繰り広げられている2人の男の戦いを眺めていた。
じーさんはシュッシュッと言い、空に弱々しいパンチを打ちながら、僕に聞いてきた。
「兄ちゃんよ、“蜂の様に舞い、蜂の様に刺す”これ言ったボクサーを知ってるかい?お?名前は確か…何だったけか?」
言葉は少し違うが、聞いたことのあるものであった。
「モハメドアリですよそれは、蜂じゃなく蝶、蝶の様に舞う!」
「お!よく知ってるじゃねぇか兄ちゃん!おお?あん人は凄かった!兄ちゃんは試合を見たことあるけぇ?」
ここからしばらくの間、僕らはボクシングの話題で盛り上がった。
だが、じーさんはボクシングの会場から突然立ち去った。
次にはじーさんは頭の中で、広大は海の上を船でゆらゆらと漂っていた。
じーさんは目を光らせながら訪ねてきた。
「兄ちゃん、マゼラン知ってるかい、マゼランって?お?あの人はいっぺー国をめっけたぞ!」
「知ってますよぉ!俺もあんな冒険家になりたい!」
「そいつぁいいことじゃ!マゼランの時代は…世界が変わってて、マゼランが正しかったんじゃ、おめぇもその内の一人だ!まずどこに行きてぇんだい?」
「アラスカです!アラスカで生きる生き物の物語を書くんです!」
僕は胸を躍らせながら答えた。
「アラスカかぁ…ここで寝られんだから兄ちゃん、世界のどこに行っても寝られらぁ!だけど、さみぃぞアラスカは。狐の毛皮を剥いで防寒着を作っている人がいるそうだ。兄ちゃんも毛皮を剥くといい」
「え?ムクドリ?」僕には“剥くといい”という言葉がムクドリに聞こえた。
「ムクドリ?!何言ってるんじゃ!ムクドリじゃ兄ちゃん、毛皮なんか作れねぇだんべ!さては兄ちゃんムクドリを見たことねぇな?お?」
その後じーさんは突然日露戦争の真っただ中に飛び込んで行ったかと思うと、次にはまた突拍子も無く世界を変えていった。
ジャングルに住むオラウータン、ゴミを荒らすカラス、ムンクの叫び、ブラジルのゴールドラッシュ時代、田中角栄、女…次々と僕を色んな世界に連れて行ってくれた。
僕がいちいちゲラゲラと笑うものだから、じーさんもじーさんでそれが嬉しかったのだろう。
目を少年の様にキラキラ光らせて面白い話題をホイホイ投げかけてきたのだ。
気が付けば時計の針は7時を迎えようとしていた。
目覚めてからおよそ一時間…
はっと我に帰った僕は腹部に凄まじい尿意を覚えていた。
膀胱が破裂してしまう危機に陥り、僕はじーさんの止まらない口を遮った。
「ちょっとごめんなさい!ちょっとトイレ…洩れそうなんです」
「おおそうかい。トイレかい。いっといで!」会話を遮られてシュンとしていた。
「すみません、ちょっと行ってきます…。オジサンはこの後は?」
「わし?わしゃはこの後は…競馬じゃ!競馬!」
僕はザックを背負いトイレへ走った。
そして再び面白い話を聞けることを期待して、さっきの場所へ帰っだ。
だが…もうそこにはじーさんの姿は無かった。
てっきり待っているものかと思っていたのだが、そんなことは無かった。
じーさんは競馬に行ってしまったのである。
突然目の前に現れた面識も無く名前も全く知らない、見ず知らずのじーさん…。
話が次から次へと変わり。色んな世界に連れて行ってくれたじーさん…。
いつもならば朝目覚めて直ぐに人と出会うことの無い僕に、普段とは全く違う楽しい朝の一時を過ごさせてくれたじーさん…。
なんとあっけないお別れだったのだろうか。
尿意を我慢できなかったことを少しだけ後悔し、またいつの日かじーさんに巡り合えることを願いながら、9月17日僕はこうぶしんげん…甲武信ヶ岳に登って行った。
山を登っている最中に、じーさんのことがぐるぐる頭の中を回っていたことは言うまでもない。