増えるスリッパ
何故スリッパが増えているんだろう…
初めてそれに気が付いたのは、1人温泉から部屋へ戻った時だった。
夜はもうすっかりと更けており、辺りを真っ黒な世界が隙間なく覆っていた。
僕は露天風呂から上がり、館内へ入った。
廊下は薄暗く、電球がオレンジ色の光をチラチラと垂らしている。
キシリッ…キシリッ…と木がきしむわびしい音が歩くたびに聞こえてくる。
階段を上がり、僕らの泊まっている部屋の前へ来た。
障子戸は閉まっていた。障子は黒く、部屋の中の電気が点いていないことが見てとれた。
戸を開けようと取手に手をかけた時だった。
目がぼんやりとした影を1つ、視界の下で捉えた。
見ると“スリッパ”だった。
暗い廊下、部屋の戸の前に一組のスリッパが置かれていた。
「もう、帰ってきて寝てるんかな…?」そのスリッパを見てそう思い、僕は戸を開けていった。
ガガッガガッガ…と鈍い音をたてながら滑りの悪い扉が横にずれてゆく。
暗い部屋の中に、廊下のオレンジ色の光がさっと差し込んだ。
誰も居なかった。部屋はガランとしていた。
部屋の真ん中にある木のテーブル、その上に置かれている白いポットや湯呑、急須などが差し込む光を僅かに反射していた。
「あれ、だれも居ない。おかしいな…」僕は疑問に思った。
スリッパはチェックインする際に1人1組ずつ渡されたので、余ることは決してない筈だ。
一体誰のスリッパなのだろうか…?
時をおかずに、一緒に泊まっている他の2人がやって来た。
僕を含め全員スリッパを掃いていたので、部屋の前には全部で4組のスリッパが並べられた。
あのスリッパは一体何なのだろうか…どこから来たのだろうか?
少しの間この増えたスリッパの話題を皆で議論した。
だが原因は突き止められず、自然とこの話題は姿を消していった。
2本のろうそくに火を点けて薄暗い部屋の中でのんびりとくつろぎ始めた頃には、増えたスリッパへの関心や疑問など僕の頭の中から、すっかりと跡形も無く消えてしまっていた。
翌朝、まだ夜が明けていない早朝。僕らは露天風呂へ行った。
風呂の直ぐ傍を流れる川の音に浸り、早朝の森の中、木々の間を潜り抜けて吹いてくる風に当たりながら浸かる露天風呂はこれ以上ない贅沢だった。
陽々の気分で湯をあがり、僕は1人部屋へ戻った。
部屋の前で僕はぎょっとした。
なんとスリッパがもう1組増えていたのだ。
障子戸を開けて部屋の中を見るも、中はガランとしており誰も居ない。
皺くちゃの布団が3枚横たわっているだけだった。
僕は疑問を抱いた。
「おかしい、絶対におかしい。幽霊か何かの仕業…?」
直ぐに他の2人が風呂から戻って来た。
だがこの話題は空腹によって直ぐに消されてしまった。
皆で朝飯を作りにキッチンへ行こうと部屋を出た時だった。
「分かった!分かったよ、スリッパが増える理由が!!」Hさんが苦しそうに笑いながら言った。
「え、それは?」僕は聞き返す。
「ハッチ(僕のあだ名)、部屋出る時いつも裸足でしょ?温泉へ行く時裸足で出て行って、帰る時他の知らない人のスリッパを履いてきてるんだよww」
僕は足元を見た。
そこには、薄汚い足が露わになっていた。
原因は幽霊でもなんでもない。
部屋を裸足で出てゆき、帰って来る時に何処からか他の人のスリッパをなにくわぬ顔で履いてきていた僕自身が原因だったのだ。
問題はこれで解決したように思えた。
しかし終わっていなかった。
不思議なことがある。
部屋を出る時にいつも裸足だった僕が、何故帰ってくる時にスリッパを履いたのだろうか…
PS
場所は山形県の滑川温泉
この旅館以外、周りに建物1つ無い
四方を囲む山々と木々、傍を流れる川に澄んだ空気
山奥にひっそりとある滑川温泉
吾妻山登山の後に…
都会に疲れ、癒されたい方は是非!