旅する蜂ブログ

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旅する蜂ブログ

旅先で見つけた物語を面白おかしく書いてゆきます!

便所の中の戦い

私生活

 彼(以後K)がなんと言おうと、僕はそれに従うしかなかった。
その空間はKの支配下にあり、不動の権力を有する王の下、僕は小さな下人。
だからKの言いうことには決して逆らえないのであった。
そこはKのアパートであり、僕は彼に1晩泊まらせてもらっている身であったからだ。
そんなKに謝らなくてはならないことがある。
 
 その日東京に用があった僕は、夜遅くに満員電車の中帰るのが億劫だったので、その晩泊めてくれとKにお願いした。
Kは快く受け入れてくれた。
 その夜、そんなKが僕にある一冊の本を勧めてきた。
原田マハさんのスピーチライターを題材にした小説「本日は、お日柄もよく」だ。
なんだこれ?ほんとに面白いのか?手渡された瞬間に疑念が渦巻いた。
どうせまた教育関係の本だろう・・・学校の教員をしている彼が読む本はたいてい教育関係の本であり、それらの本は僕の興味を全く引かない。
それでも勧められたのだからとりあえず手に取ってみた。
じろじろと表紙を眺め訝しむ僕に、Kはこう言った。
「今まで読んできた本の中で、その本は10本指に入るよ!」
へぇそうなんか。その言葉に背中を押され、ようやくページをめくった。
テンポと切れが良い文体に、すらすらと活字が頭に入り込んでくきた。
教育関係の本では無く、読み始めて数分後、ユーモアあふれる文章にやられ、読む前に抱いていた疑心はすっかりと消え去り、気持ちはすっかり愉快になっていた。
次はどんな展開が来るんだろう!ようやく気分が弾んで来たと思ったその時、絶対的な権力が猛威を振るった。
Kはとろんとした目をしながら、夢中で読みふける僕にこう言ったのである。
「もう寝ようかな」
まだ読み始めて間もなく、20ページ程しか読めていなかった。まだあと350ページ程残っている。
自ら勧めといて、その直後褒美を取り上げるかのように、こんないい所で中断しろというのか?
その部屋の電気は天井に付いているそれのみで、卓上電気は無なかった。天井の電気を消したら部屋の中は真っ暗になるのである。
本など読めるわけがない。それでも彼に従うしかない。
蟻の様にちっちゃな身分の僕が、部屋の主であり絶対権力を持つ王であるKに逆らうことなど出来やしない。
僕はKに合わせ、電気を消し、読みたい気持ちを無理やり抑え込み、眠ったのである。
夜の10時半であった。

 なんの前触れもなくパッ目が開き、僕は目覚めた。
「あぁいつものあれか・・・」目覚めた瞬間僕は思った。
癖である。なにか面白い事があると興奮して夜な夜な目が覚めてしまう癖を僕は持っていた。
昨日読みかけていた本に共鳴してその癖が顔を出したのである。
しかし電気を点けられないので、読むことは出来ない。
時計を見るとまだ3時半にもなっていなかった。
おいおいなんて時間に目が覚めるんだと・・・その恐ろしい事実を知り、もう一度眠ろうと目を閉じるが、エンジンがかかって火照った心がそれを許さない。
この興奮を静める為には体を動かす他に方法は無い。
よしっ‼と意気込んで僕は再び目を開け、体を起こして部屋を見渡した。
暗くて殆ど何も見えない。近くでスース―とKの寝息が聞こえてくる。
Kを起こさぬようソロソロと部屋を抜け、僕は太陽がまだ眠る冷え切った外へ飛び出した。
何処かへ行く当ても無く、ふらふらと東京狛江市の住宅街を歩きだす。
街は寝静まり人っ子一人いない。道路の至る所にぼんやりと外灯が灯り、いくつか星が輝いている。
何処からかピューと寂しげな音が聞こえ、風が吹きつけて来ては鳥肌を立たせる。
この物静かな世界で、素っ頓狂な僕の興奮だけが猛っていた。
僕はとりあえず走った。走っては歩き、また走り出し、猛りを発散するしかなかった。
 そうして1時間程経った頃、ぼんやりと輝く外灯を見てある考えが頭をよぎった。
「この外灯の光で本を読めばいいんじゃねぇか!!」
画期的な発想に気持ちが弾み、僕は一目散にKの眠る家に帰った。
時間は4時半、Kが家を出る6時半まで2時間はある!
2時間で350ページ読めるだろうか・・・?いや流し読みしてでも読んでやる!
僕のエンジンはさらに熱くなっていった。
しかし本を持ち出して、部屋を出ようと廊下をソロソロと歩いている時だった。
さらに素晴らしい考えが閃いた。
「便所の中で読めばいいんだ!!」
外よりも暖かく、そして安心して座れる。今の状況でこれ以上の条件は無いであろう!
早速僕は便所に滑り込んで便器に座り、悔しくも昨日読めなかった本の続きを読み始めた。
あと1時間半、読め読め読みまくれ!!僕は全力で活字を頭に突っ込んでいった。

 30分程経った頃、僕は大学時代に友人から何気なく聞いたある言葉をふと思い出した。
「知ってたか?洋式の便器に長く座ると腸に負担がかかるんだってよ!」
なんでそんな言葉を思い出したのか・・・恐らく普段決してしない便器に長時間座るという珍奇な行為が、過去の苔むしたどうでも良い記憶を呼び起こしたのだろう。
僕は便器に座りながら心の中でこう呟いた。
腸耐えてくれ、あと1時間ほど。負担をかけちまうだろうけれど・・・我慢してくれ。
自らの腸にわびを入れ、再び気を取り直す。
普段の何倍もの速さで読むものだから、目は疲れ、頭がフラフラしてきた。
それでも負けじと活字をさばいていく。
あと180ページ・・・150ページ・・・100ページ・・・50・・・目が熱くなっていた。
鶏もまだ目をこする早朝から、便所と言う狭苦しい空間で僕は1人懸命に戦っていたのである。
 突然壁を通してやかましい機械音が鳴り響いてきた。
Kの目覚ましだった。気がつくと既に時間は6時を過ぎており、Kが起きた。
僕は負けた。残り40ページを残して本を読み切ることが出来なかった。
はぁ~とため息をついて目を本から離した。一気に力が抜け、痛快な脱力感が全身隅々まで染み渡る。
狭い便所から抜け出した時にはまたそれをさらに上回る快感が襲ってきた。
便所から出た僕は何事も無かったかのようにおっすと挨拶し、眠たそうにそれに答えるK。
外に出ると眩しい陽射しが降り注でいた。これから世界では新たな1日が始まろうとしている。
早朝から1人バカみたく熱くなって・・・なんだか得をしたような気分になっていた。
今日絶対に何かいいことがある!!そんな気がし、今日の僕の1日はすこぶる爽快に始まっていったのである。
 
 Kと別れるまで僕は言えなかった・・・からここで謝ろうと思う。
本を便所に持ち込んですまん。