羽ばたいた彼女
それは9月の半ばごろからか・・・彼女は必死にしがみ付いていた。
葉は雨粒に打たれてバッタバタと激しく上下し、風に吹かれて四方八方に揺れ動いた。足を離してしまえば、たちまち彼女の軽い体は雨嵐の中へ飛ばされてしまうことだろう。
彼女は振り落とされない様、必死に葉の裏っ側にしがみ付いていた。
彼女は、もう何日もそうしていた。もう何日も飛んでいなかった。もう何日も月を見ていなかった…。
彼女は感じていた・・・。
もうそろそろ自身の寿命が尽きることをひしひしと感じていた。
目はかすみ、世界がぼやけてきた。
以前の様にくっきりと世界を見られなくなってしまっていた。
少し前までは簡単だった葉の裏にこうしてしがみ付くことも・・・今では足の節々が痛んでとても辛い。
あでやかで美ししかった羽、それも今ではボロ雑巾の様。
鱗粉が剥がれ落ち、所々破れてしまっている。
「私…もうそろそろ死んでしまうんだわ…」彼女は雨風で揺られる葉の下で悲しんだ。「死んでしまう前に、もう一度、月光に輝く夜空を自由に飛び回りたいわ…」
だが雨は容赦しない。
9月中旬、日本の本州付近に前線が発生し、黒々とした分厚い雲が空を埋め尽くした。
止む気配を一切見せず、雨はひたすら地上に降り注いだ。
何日も何日も止むことなく降り続けた。
ポツポツとやさしく降り、時にはザーザーと怒り狂った様に降り・・・雨は幾日も振り続けた。
雨が降るせいで、彼女はもう何日も夜空を飛んでいなかった。
雲が空を覆うせいで、彼女はもう何日も月も星も見ていなかった。
しがみ付きながら彼女は昔の事を思い出していた。
まだ小さな毛虫だった頃、毎日毎日首を持ち上げて空を見上げ、いつの日か大空を自由に飛び回ることを想像していた・・・
さなぎになり、ふ化の準備をしている時など楽しみで体をいつもうねうねと動かしていた・・・
「雨で飛べない今も、何だかあの頃の気持ちと似ているわ」
雨はそんな彼女にお構いなく降り続けた。
彼女は心から祈った。死ぬ前に・・・もう一度だけ夜空を美しく飛び回りたい。お願いだから空よ晴れてちょうだい!
それは久しぶりに見る太陽だった。
雨は止み、空は晴れ渡り、陽の光がさんさんと降り注いだ。
今までずっと薄暗く、どんよりしていた森の中に陽が差し込み、世界が光り輝いた。
陽が葉を照らして葉の脈が透き通って見え、そよそよとやさしい風が吹き、ゆらゆらと葉が揺れた。
「なんて気持ちの良い日なのでしょう、今夜・・・ようやく今夜飛べそうだわ!!」
そして・・・もう太陽が山陰に落ち始め、辺りが次第に暗くなり始めた頃だった。
彼女は6本の足を葉の裏から離した。と同時に羽を羽ばたかせ、体を反転させてふわりと宙に舞った。
頭上に生い茂る葉や枝を潜り抜け、樹上に出た。
山陰から洩れるオレンジ色の夕日が西の空一面を染めていた。
彼女は懸命に羽ばたいた。
後方へ飛び散る鱗粉が夕日に照らされて、キラキラと光り輝いているのが見える。
森の木々がどんどん小さくなり、遠くどこまでも続く山々が目に移り世界がどんどん広がっていった。
生涯最後となるかもしれない飛行・・・彼女は泣き、その小さな体にその感動を深く刻み込むかのように飛んだ。
彼女は風に乗って、どこまでもどこまで飛んでいった。
何故そこへ飛んできたのか分からない。
あまりにも大きな感動でなにも考えられなかったのか・・・?
風がそこへ連れてきてしまったのだろう・・・?
僕は120㌔程で高速道路をすっ飛ばし、東京へ向かっていた。
シュンシュンと後方へすっとんでゆく流れる景色の中で・・・前方にふと彼女の姿を目が捉えた。
黒い小さな彼女の姿が見えたと思った次の瞬間、バチュッと音をたてて、フロントガラスには見るも無残に潰れた彼女の姿があった・・・
僕はなんと罪深き男。
東北の山奥に生きた一匹の蛾の物語