旅する蜂ブログ

奥会津の地球暮らし

~マタギの見習い~ 自然を愛し、地球の詩を書き、奥会津の山奥で素朴に暮らす

斎藤健太の幸せの1週間③

 2014年4月~2015年1月までの期間、僕は日本に居なかった。日本から遥か遠く離れた地、ブラジル・アマゾン地域のある農場で、カカオやバナナをはじめ、熱帯の果物の収穫を毎日の生活の主にして生きていた。その農場というのがまた広大な森の深緑に囲まれた場所にあり、電波の通じない場所であった。だが不便と思うことは全くなく、今まで携帯という魔物に多くの時間を縛られていた僕はむしろそんな携帯の使えない生活にのびのびと解放感や充実感を覚えていた。

 それでも月に数回、人が集う街に行く機会があった。そこで今まですっかり干からびていた携帯に、電波という飲み水をくれてやるのである。するとどうだろう、携帯は跳ね起きたかのように命を吹き返し、何週間溜まりに溜まっていた友・知人からの連絡を怒涛の如くドカドカと一挙にかき集めるのである。サークルや研究室に関する通知に、状況を尋ねる質問がどっさり溜まっており一つ一つに軽く目を通してゆく。そんな中、1通のラインを目にし、僕はぎょっとした。ラインは斎藤からのものであり、送られてきてからもう大分日数が経ってしまっていた。

「出発する前にロードバイクが盗まれちまったよ」

その短い一言からは尋常ならぬ悲哀と怒りの念が伝わって来た。カメレオンを失い、強烈な痛手を負っていた斎藤がまたしても、不運に見舞われてしまった・・・。一体どれ程の悪事を働けばこれ程の仕打ちに見回れるのだろうか。この男は何をしたんだ?一体どんな酷い悪事を働いたというのだろうか。いや、多分そんな悪いことはしていないはず・・・それでもこういう事態に陥ってしまう斎藤という男がただ哀れに思えて仕方なかったが、僕に出来ることは何もなかった。ただ慰めの言葉を送って祈ること以外に出来ることは何もなかった。

 僕がブラジルに旅立つ前、斎藤はある旅に出ることを決し、その概要や魅力を生き生きと僕に語ってきた。その旅は以下のようなものであった。まずロードバイクを持ってイタリアのローマに降り立ち、そこから400㌔程ペダルを漕いでアドリア海に面する都市・バーリへ行き、船に乗ってアドリア海を横切り、クロアチアの都市・ドブロブニクに行く、そんなシンプルな旅であった。「途中で野宿をし、釣りをし、のんびりとロードバイクで田舎を走って行くんだ!斎藤は目を輝かせながら熱く語ってくる。その雄弁に呼応して、僕は想像の中であたかも自分がその旅を行っているかのように楽しませてもらったものだ。

カメレオンの1件で6万円程の大金がドブに流れてしまったにもかかわらず、斎藤はその旅の為に出発数か月前に10万円程の大金をはたいてロードバイクを購入した。そしてあとは出発を待つだけという幸せに満ち溢れた生活を送っていたのだ。

斎藤の旅は7月で、僕のブラジル行は4月であった。

「じゃ、ロードバイクの旅楽しんで!俺が帰ったら話を聞かせてくれよ!じゃ!!」

4月、そう言って僕はブラジルに一足先に旅発った。そして7月、それに続いて斎藤が飛び発とうとしたその矢先である。事件が起きたのである。駐輪場に置いておいた、旅に無くてはならない大事なロードバイクが盗まれてしまった・・・人の心を持たぬとんでもない何者かにロードバイクが盗まれてしまったのだった。不運とはこんなにも立て続けに起こるものなのだろうか・・・。もしかしたら、どこかの駐輪場に置いてあるかもしれない・・・そんな淡い希望を胸に斎藤は夜遅くまで血眼になって、息を切らせて全身に汗を吹き出させながら、思いつく限りの駐輪場を片っ端から走り回った。高架下の狭い駐輪場にぎっしりと並ぶ自転車が、古い外灯からたれる乏しい光にぼんやりと照らされていた。「ない、ないないない!!」怒りと焦りが入り混じった声を漏らしながら、斎藤はロードバイクを必死に探し回った。しかし、どこにもない。いくら探しても見つからなかった。しまいには巡回していた警察に捕まり、「何してんのそんな所で!!免許証みせて免許証!!」と職務質問を受けたほどである。駐輪場の中を徘徊し一台一台入念に探していたものだから、泥棒だと勘違いされてしまったのである。

 カメレオンといい、ロードバイクといい、あいつは何故こうも残酷な事件に巻き込まれるのだろうか・・・。送られてきた1通のラインを見て僕は思いに耽った。斎藤はそもそも旅に出る様な奴では無かった。釣りをこよなく愛し、暇があれば釣りに出かけてしまう。僕の目には釣りさえ出来ればそれでもう人生に満足するような人間に見えていた。そんな斎藤は高校を卒業した後就職を選び、僕は大学へ進んでいった。真面目に毎日日々働く斎藤に対して僕はマレーシアにインドネシア、カナダにイタリア等へ一人旅に夢中になっていく。そして時たま会う斎藤に海外へ出る素晴らしさとその魅力を熱く語っていたのである。その話が、斎藤の中に眠る冒険心に火を点けてしまったらしい・・・。斎藤は思った。「釣りだけじゃねぇんだ。世の中釣りだけじゃねぇ!俺も自由に旅してぇ・・・」そして2年間務めた仕事場を去り、針灸専門の短大へと自ら道を逸らしたしたのである。そして短大へ通う傍ら、アメリカや中東へと旅をするようになっていった。

 ロードバイクが盗まれたとラインが送られてきた時、僕は思い返してみた。そしてこの一件も何だか僕に原因がある様に思えてならなかった。もし、斎藤に旅の魅力やすばらしさなんかを熱く語ることなどしなかったならば、仕事を止めて、旅に目覚めてロードバイクを買うことも無かったのだろう。釣りだけにとどまらず、良くも悪くも斎藤の人生に変化をもたらした原因は僕にある。そんな斎藤は何を思っているのだろう・・・僕は気が気でなかった。

 

 そしてつい2週間前の事である。僕は新宿のマクドナルドのカウンター席に座り、飲み物に入っていた氷をガリガリと噛み砕きながら、ガラス一枚を隔てて広がる夜の世界を眺めていた。ひしめく建物から放たれるネオンが夜の街を照らし、人々がその中を忙しなく動き回っている。明るい店内は人で溢れかえり何十もの声が飛び交っていた。僕の隣には斎藤が肘をつきながらコーヒーを啜り、同じように外を眺めている。

「あのロードバイクの件覚えているか?」僕は斎藤に尋ねた。

「あぁあれ、忘れるわけねぇって」

「そうだよな・・・」

「当時は地獄だったけど、でもな今思えばロードバイクが盗まれてよかったよ!何故かって?そのお蔭で大幅に旅を変更してクロアチアを中心に旅をすることになったんだけど、そこで釣りも存分に出来て、何よりも面白い出会いに恵まれたんだ!あのじーさん・・・クロアチアの釣具屋で出会ったじーさんなんだけど、またこれが適当でなぁ―…」

そう言って斎藤はケラケラと笑いながら満面の笑みで語り始めたのである。僕の心はその一言でなんだが軽くなった。

 なんだか人生にちょこちょことちょっかいを出されている斎藤、そんな斎藤が2018年の夏にロバかウマかどちらかを引き連れてモンゴルを横断してチベットやウィグル地区を回らないかと誘ってきた。本気かどうかは定かではないが、もし本気であるならばその計画に乗るつもりだ。舞い込んでくる不運も含め、一体どんな世界が広がっているのか、想像すると楽しみである。

 

 

斎藤健太の幸せな一週間②

   訳が分からなかった。一体何があったというのだろうか・・・全く訳が分からなかった。斎藤はそんな奴ではない。ゴキブリを大量に飼うような奴ではないことは言われなくとも分かっている。ゴキブリ好きだなんて聞いたことも無いし、ましてや飼うなんてことはもってのほかである。部屋の中に現れようものなら殺してしまうような奴、それが斎藤である。そんな斎藤がゴキブリ飼いだと疑われてしまったのだ。一体何故、そんな風に疑われてしまったのか・・・訳が分からなかった。

「ゴキブリ?なんでそんな状況になっちまったんだ?」僕は斎藤に尋ねた。

「あぁそれがよ、聞いてくれよ・・・ちきしょう・・こんな馬鹿なことはねぇって・・・」

「あぁ聞くよ、何が起こったのか話してくれ」

「今日俺さペットショップでコオロギを100匹買ったんだ。10匹とかだと直ぐに無くなっちゃうし、ちまちま買いに行くのが面倒だからさ、100匹まとめて買ったんだ。そいつらを虫かごに入れて家に持って帰ったんだけど、家の前で偶然ばったり会っちまったんだ。下の住人に・・・」

「下の住人?下の住人って、あの床をぶっ叩いてくる下の住人か?」

「あぁそうだ、その下の住人だ。普段は滅多に会うことがねぇってのに今日に限って運よく鉢合っちまったんだ・・・ちきしょう・・・」

 下の住人・・・以前斎藤から聞いたことがある。夜遅くにシャワーを浴びると、排水管を流れ落ちる水の音が不快なのか、うるさいと言わんばかりに棒か何かでドンドンと天井を激しく叩いてくるという。

「下の住人は固まっちまったよ、俺の手に抱えられている虫かごを見て、固まっちまった。えぇぇっ?!て声をあげてさ、後ずさって、そして部屋の中に戻っていっちまったよ。あの時の驚いた顔は忘れられねぇよ」

「もしかして・・・お前斎藤、コオロギがうじゃうじゃ入った虫かごを、袋かなんかで隠さずにそのままペットショップから持って帰ったのか?」

「そうなんだ」斎藤の声はどんどん沈んでいく。

「うっわっ・・それじゃあおい、コオロギが丸見えじゃねぇかよ」僕は斎藤のその話を聞いて全てを理解した。そして呆れてしまった。

「でも、それどころじゃなかったんだ。カメレオンにコオロギを与えることを考えると楽しみで仕方無くなっちまって、頭ん中がカメレオンで一杯になっちまったんだ。そんな簡単な事にも注意が向かなかったんだよ。ちきしょう」

斎藤の気持ちは分からなくも無かった。僕も夢中になるともうそのことしか考えられなくなり、そうなってしまうからだ。

 下の住人にコオロギを見られた瞬間にもう全ては終わっていた。結末はどれも悲惨なものであり、もうどうにも救いようのないものであった。

 下の住人に見られたその数分後、斎藤の家の電話が鳴り響いた。斎藤はまさかと思い電話に出ると、まさにそのまさかであった。それは大家からの電話であった。斎藤が部屋の中で大量のゴキブリを飼っていると下の住人から聞き、今から行くという電話であった。それを聞いて斎藤は弾かれた様に虫かごを持って外へ飛び出し、近所の草むらへ100匹のコオロギを解き放った。黒い塊は外へ放りだされた瞬間、四方八方へ一斉に散らばって、生い茂る草むらの中へ消えて行ってしまった。

 部屋に戻って間もなくベルが鳴り、大家が現れた。その表情は厳しく、嘘など簡単に見通す力が目にみなぎっていた。斎藤は大家のその姿に恐れおののき、カメレオンの事、コオロギの事、何もかも全てバカ正直に答えた。ゴキブリじゃなく、コオロギだと弁解しても無駄であった。下の住人がゴキブリだろうとコオロギだろうと同じアパートで飼われていること自体が耐えられないというのだ。そして大家は斎藤に苦渋の選択を与えた。部屋を出ていくか、もしくはカメレオンを手放すか・・・。斎藤はそれを聞いて悲しみに打ちのめされた。どちらも選び難いそれらの選択に迫られて苦しんだ。斎藤は悩みに悩み、頭を抱えて苦しんだ。そしてついに決断し、斎藤は部屋をとったのだ。一目ぼれして買ったカメレオン、毎日毎日眺めるのが幸せで仕方なかった。それがほんの一瞬の内に崩れ去ってしまった。それはカメレオンを飼い始めてからまだ1週間も経っていなかった。

 翌日、斎藤の部屋の中に、あのきょろきょろと小さな丸い目を動かし、細い足の指で枝に捕まるカメレオンの姿は無かった。そして財布にはペットショップから受け取った薄っぺらい5,000円札が入っていた。

 

 斎藤がこんなにも不幸に陥ってしまった原因を考えて辿ると、どうもその源は僕に辿り着く。もしイモリの写真を何枚も斎藤に送らなければ、斎藤の生き物を愛する心に火をつけることは無かったであろう。カメレオンを飼うことも、下の住人に不快な思いをさせることも、辛い選択に頭を悩ませる事も無かったのだ・・・

 

 その数か月後、斎藤から再び暗い連絡が一通入って来た。

ロードバイクが盗まれちまったよ・・・」

話しを聞き終えて振り返ると、それは僕のせいだったのかもしれない。斎藤が不幸になってしまったのは、元を辿ればまたしても僕のせいである気がしてならなかった・・・。

斎藤健太の幸せな1週間

 訳が分からなかった。一体何があったというのだろうか・・・全く訳が分からなかった。僕は食べていた夕飯を中断してテーブルを発ち、暗い階段を駆け上って自分の部屋に入り込んだ。階段下から母親の声が聞こえた。

「いきなりどうしたの?」 

その問いを無視し、僕は携帯電話に話しかけた。

「なぁおい、意味が分からねぇ、何があったんだよ・・・?」

携帯電話からは今にも死んでしまいそうなか細い声が聞こえてきた。

「八須・・・ダメだ、俺もうダメだわ」

訳が分からなかった。一週間前から斎藤は、どでかい幸福感に包まれていた。欲しいものを手に入れて、もうこの世の中に不満など一切無い、そう言える程の幸福に包まれていた斎藤からは悲しみに満ちた弱々しい声が聞こえる筈がなかった。ふるふると震える声からは、半べそをかきながら話している斎藤の姿がありありと想像する事が出来る。

「八須・・・ダメだ、俺もうダメだ・・・」涙ぐんだ声で、言葉を詰まらせながら斎藤は言うのである。

 それは僕のせいだったのかもしれない。斎藤が不幸になってしまったのは、元を辿れば僕のせいである気がしてならなかった。

 斎藤という男は僕の高校以来の友である。背が僕より少しだけ小っちゃなフィリピン人のハーフ男だ。高校時代に通っていたボクシングジムで出会い、それっきり気が合い、今現在まで事あるごとに会っては旅の話や将来の夢を語りあう仲である。

 大学3年生の冬、当時僕はそんな斎藤に飼っていたイモリの写真を何枚もラインで送っていた。「この写真かわいくねーか?」と容赦なくバンバン送り付けていた。斎藤の手元へは日々何枚ものイモリの写真が送り付けられてきた。水槽の中を悠々と泳ぐイモリの写真、餌に食らいつくイモリの写真、陸に上がってのんびりしているイモリの写真・・・。鬱陶しい程に勝手に何枚もの写真が送り付けられてくる。そしてついにはそれれらの写真が、斎藤の中に眠る生き物を愛おしむ心に火を点けてしまったのだ。

斎藤が言った。

「俺もトカゲを飼うことにした!!だからペットショップに一緒についてきてくれよ!」

 翌日の昼過ぎ、家の前で車のクラクションが鳴った。僕は外へ出た。窓が開き、運転席からは嬉しそうなほくほくの顔が覗いている。

「早くいこーぜ!」

「あぁ!行くべ行くべ!」そう言って僕は助手席に乗り込み、車はペットショップに向かって走り出した。

トカゲを買う予定であった斎藤だったのだが、ペットショップに入って数十分後、斎藤はある水槽の前に釘付けになっていた。何をそんなに見惚れているのかと思い、その水槽を見てみると、そこに入っていたものはトカゲではなかった。

「八須おい、こいつを見てみろよ!かわいくねぇか?」斎藤は言った。

「あぁ確かにな!かわいいな、こいつはかわいい・・・。でもあんなに欲しがっていたトカゲはどうしたんだ?」

「トカゲはやめた。一目ぼれだよ!こいつに一目ぼれしちまったんだ!決めた、俺、こいつを飼うわ!」斎藤は目を輝かせながら言った。

「えぇっ!!2万、2万円もするんだぞ?」

そんな驚いた僕の忠告など聞きもせず、斎藤は止まらなかった。

そうしてペットショップから出る時に手に抱えていたものはトカゲではなかった。手に抱えられていたもの、そいつはカメレオンだった。斎藤はカメレオンに一目ぼれしてしまったのだった。カメレオン一匹で約2万円、その他に水槽やヒーター、電球に木の枝・・・店員にそそのかされてこれもあれもと買わされ、斎藤は6万円程の大金を財布から引きずり出してカメレオンを買ったのである大金をはたいた後でも、斎藤はこれっぽちも後悔の色を見せず、これ以上ない程の幸せに満ち溢れた顔をしていた。

 カメレオンの餌はコオロギである。ビュルッと一瞬で伸びる舌でコオロギを捉えて捕食するカメレオンの姿が何とも堪らないらしく、斎藤はそれからというもの毎日毎日僕にカメレオンの捕食時の写真をラインで送り付けてきた。

 

 カメレオンを毎日眺め、幸せに満ち溢れている筈のそんな斎藤から、死にそうな声が聞こえてきたのである。

「八須、俺もうダメだ・・・なぁ聞いてくれよ。カメレオンを手放さなければならなくなっちまったんだよ」

訳が分からなかった。なぜそんな状況になってしまったのか全く想像が追いつかなかった。

「とにかく落ち着け、なにがあったのか聞かせてくれ」僕がそう言うと斎藤は震える声で語り始めた。それを聞き終えた時、僕は悲しみと沈むと同時に、何処からか笑いがこみ上げてきたのだった。

 斎藤はこう切り出した。

「下の住人が大家に言いつけやがったんだ!俺が部屋の中で大量のゴキブリを飼ってますって!俺はかってねぇぞ。大量のゴキブリなんか飼ってねぇっ!!」

 

PS つづく

山の用意は終わってないし、まだ風呂にも入っていない。本も読みたいし、旅の企画書も作らないければならない。もうダメです。今日は書くことは出来ないのでまた手が空いた時に書きます。

北アルプス・穂高岳と借地権

 

 一体この土地は誰のものなのだろう?ふと浮かんだ疑問は、初めはそんな素朴なものであった。だが考えるにつれてその素朴さは消えて複雑なものになっていった。

いや“誰の”というのもよく考えてみればおかしな話ではないか。土地とはそこに住むあらゆる生き物が共有するものであって誰かの私有物になるものではないのではないか。遠い昔から今に至るまでの想像しがたい長い時間の中、様々な要因によってこの大陸が出来、この地が生まれた。微生物から始まり、植物、動物とあらゆる生物が関わりあって生きている。つい最近になって誕生した新米の僕ら人間が、勝手に所有物にする・・・それはなんだか考えてみればおかしいな、おかしいぞ!土地を自分だけのものにするという事自体なんだかおかしいぞ!僕は土地のことを深く深く自分なりに考えこんでいた。

それは山の中、夜の北アルプスの中での事であった。厚い雲が夜空一面を覆い、星ひとつ見えぬ暗い夜であった。風は冷たく、気温は氷点下を下回っている。辺りは静まり返り、パタパタとテントの布がはためく音が聞こえる。ヘッドライトのか細い光に照らされた薄暗いテントの中、僕はいくら考えても終わりのないように思われる、土地のことを考えていたのだ。

 そもそものきっかけは、Mさんの発したある一言だった。

「だからもう!!Groundo Lease(グランドリース)だよ!!」

グランドリース。日本語に直すと借地権である。それは北アルプス登山とは結び付け難い、疎遠な言葉であった。なぜこの言葉が、ここ雄大な北アルプスの山の中で発せられたのだろうか。ただ言えることと言えば、その言葉を発した時、彼女は疲れていた。寝不足のまま今日12時間程山を歩き続け、あまりにも疲れていた。疲れが溜りに溜っていたのだ。

僕らがこの北アルプス穂高連峰を登り始めたのは今日(10月22日)の早朝6時頃のことだ。夜が明けたばかりで、ひんやり冷たい大気の中を差す朝日に照らされて、穂高連峰の頂きが柿色に輝いていた。梓川に掛かる河童橋上高地周辺には、紅葉と朝日に染まる美久しい風景をカメラに収めようとする人々で混み合っていた。が、穂高岳に足を踏み入れた途端、それまでごった返していた人々の姿は消えてしまった。茂る木々の間、赤黄色の落ち葉を踏みながら登ること約2時間、沢岳小屋に辿り着く。小屋は数年前、雪崩で全壊し今はまだ修復途中であった。小屋の後ろを見上げると直ぐそこには鋭くそそり立つ穂高の山々が見渡すことが出来た。小屋の近くにテントを張り、あらかたの荷物を置いて、僕らは穂高連峰周遊を開始した。

 小屋から上は木々が無く、がれきの急斜面であった。がれきに体重を乗せるとどれもこれもぐらりとぐらついた。岩を落とさぬよう慎重に登ってゆく。登り始めて早々、はぁはぁと息を荒げ、頭が時々痛むんだ・・・と僕の前を歩くHさんがこぼした。

「高山病ですかね・・・無理せず降りますか?」

僕は言った。

「いや、もし本当にやばいと思ったら、そこで俺は引き返すよ、ありがとう」

そうは言うものの、顔はとても苦しそう。それでいて目を逸らすと直ぐにルートを外れ、危ない個所へと進んでしまうのである。

「あ、あっ、そっち行くんですか?こっちを歩いた方がいいですよ」

「あっそっちか・・・そうだよね。頭がぼっとして、気が付くとなにも考えずに登っちゃってるよ」

頭は垂れ、息を荒げていた。重たそうな足を一歩一歩出しだながらゆっくりと登ってゆく。

先頭を行くMさんとは距離がどんどん離れていった。

斜面を登り切る(天狗のコル)と強風が音を立てて止むことなく吹き荒れていた。汗ばんだ全身が冷える。空は晴れ渡り、眩しい陽光が暖かく感じられる。ザックを降ろして腰を下ろし、北アルプス南部を始め遠くまで広がる山々を眺めた。

「大丈夫?」

Mさんが尋ねる。

「時々、頭痛がするんだよね。でもこれくらいなら注意すれば大丈夫」

Hさんは答えた。

数分の休憩を終え僕らはごつごつとした岩肌の尾根を、数キロ先にある西穂高目指して歩き始めた。無理をせず、Hさんのペースに合わせて。尾根は切りたつピークを幾つも作って、はるか先まで続いていた。遠くの方で右に湾曲し、険しい山肌を見せている。

「うっは、これもし落ちたら死んじゃうな!!」

僕は足元の崖を見下ろして言った。

「そういうこと言わないで!今集中してるんだから、本当に怒るよ!!」

Hさんは必死で高所と岩場と格闘していた。

1つ目のピーク(ジャンダルム)を越えてしばらくすると、右手に伸びる山の影からもうもうと雲が流れてきた。それはみるみるうちにこちらに寄ってきて、気がつけば先ほどまで出ていた太陽を覆ってしまっていた。そのうち雹のように固く小さな雪が横殴りの風に乗ってピシピシと顔に襲ってきた。体感温度は一気に下がり、体が冷えてくる。ジャケット羽織ってフードを被ると音が聞こえにくくなり、僕らは無言のままひたすら歩き続けた。天気はそのまま回復せず、降りしきる雪は時に雨に変わり、また雪に戻ると言った感じである。

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 そのまま2つ目のピーク(奥穂岳)を越え、尾根歩きの終わり箇所(前穂高分岐)に辿り着いた。時計は4時を越え、辺りが既に薄暗くなり始めている。岩は雨で濡れ、滑りやすくなっている。途中で日が暮れて辺りが真っ暗になり、ヘッドライトの小さな明かりを頼りに下っていった。   

ようやくテントに辿り着いた時には時計は6時を回り、上高地を発ってから12時間が経っていた。僕らはテントに滑り込み、夕飯を食べながら疲れを癒した。

そして腹が膨れて僕らは黙って静かに時を過ごした。静まり返った山の中で、ライトの乏しい明かりが何だか心地良く、しばらくそうして流れる静かな時間を堪能していた。

 突然隣からHさんが僕に囁いた。

「ねぇ見てみろよ!寝てるよ座りながら」

顔を上げてMさんを見てみるとMさんは座ったまま顔だけを傾けて眠っていた。背をピンと伸ばして、足はあぐらをかき、手は足の隙間に重ねて置いている。その姿がなんだか仏に見えた。座りながら眠るとは、終日歩き通して相当疲れているのだろう。その姿が面白おかしかった。その時、突然Mさんが聞き取れぬ英語でゴニョゴニョと何かを言った。

何を言っているのか聞き取れず、「??え?何?」と僕らは聞き返した。

するとそれに答えるようにMさんは声を荒げて言ったのだ。

「だからもう!!Groundo Lease(グランドリース)だよ!!」

外資系で働いているMさんは、外国人相手に常日頃から英語を使っている。座って眠ってしまったものだから脳は寝付けずに動いていたのだろう。そして頭の中で恐らく投資家や企業を相手に土地関係の仕事をしていたのだろう。細々とした質問に、複雑な質問を浴びせられ、懸命に頭をフル回転させていた。そうしてみるみると苛立ちは募っていった。そんな激烈に荒れ狂う戦場に新手の敵がいきなり飛び込んできたというわけである。そいつは余りにもすっとぼけた質問であった。それこそが僕らの出した「え?何?」だったのだ。そんなすっとぼけた質問に我慢の糸がはち切れたのだろう。Mさんは叫んだのだ。

「だからもう!!Groundo Lease(グランドリース)だよ!!」

それからだった。その一言で僕の頭の中にふとした疑問が湧き出てきたのである。

「一体この土地は誰のものなのだろう?」

行きつかぬ答えを探るべく、眠りにつくまで僕は考えこんでしまった。しんと静まり返る静かで寒い夜であった。僕はいつの間に眠りについてしまっていた。納得のゆく答えを見つけぬまま・・・。

日光旅 僕らをひっ捕らえた看板

 思えば、都会に住む僕は看板というものに惹かれる事は全く無い。店がぎっしりとひしめく中、店は人の目を引くため、看板にど派手な装飾を施す。他の店はそれに負けじとさらに派手な装飾を施し、また他の店はさらにさらにそれに負けじと・・・何処までも何処までも走り続けるその暴走特急列車に終点駅というものはない。皆他と競い合って自分を誇示し、気が付けば、あっという間になんとまぁ見るに耐えないきったない街の出来上がりである。東京で生きていると嫌でも派手で、ばかでかい看板が目につく。何だか息苦しさを覚えるのは僕だけだろうか・・・。

 そんな東京のどぎつい看板とは比較にならぬ程質素で飾り気のない看板が日光の中三依にあった。

 その看板は、店の壁にただ一言文字が書いてあるだけ。ライトアップも装飾も何もされていない。だが、そんな飾り気のない一枚の看板が僕ら8人全員の興味を見事ひっ捕らえてしまった。壁にはこう書かれていたのである。

“ばーちゃんの店”

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卑怯だ、この看板はあまりにも卑怯である。これを見て一体この店は何なんだ?どんなばーちゃんが居るんだ?と思わずに居られないではないか。僕らは迷わず店の中に引き込まれていった。

 店はソフトクリーム屋であった。手書きの張り紙が壁に1枚貼られている。それを見る限り、どうやらわさびソフトが一押しらしい。だが、店の中にばーちゃんなど居ないではないか。いや、ばーちゃんに限らず人ひとり居ないのである。留守かな?そう思った矢先、店の奥の部屋から声が聞こえた。「いらっしゃい」と。その後すぐに腰の曲がったばーちゃんが1人、前かがみになって現れた。よっちらよっちら僕らの方に歩みよってくる。すると奥の部屋から続いて声が聞こえた。「いらっしゃい」と。直後、先のばーちゃんよりもさらに腰の曲がったばーちゃんが現れた。まさか2人のばーちゃんが現れるとは思ってもいなかったため、もしや、まだもう1人現れるのではないかと、ばーちゃんが出てきた奥の部屋をこっそりのぞいてみた。だが食べかけの昼食がテーブルに置かれているだけで、ばーちゃんはもう居なかった。昼食を仲良く食べていたのだろう、それを中断させてしまった為に芽生えた小さな罪悪感と共に、僕らはわさびソフトを注文した。

 「わさびソフト食べる人?」そう皆に呼びかける。はい・・・はいはい、はい・・・と時間差を置いてバラバラに手を上げる皆。いくつもの手がバラバラに上がり、ばーちゃんの目は泳いでしまった。

「わさびソフトが・・・2個、4個、6個、5個」と数える明らかに混乱してしまっていたばーちゃんに対して優しく手の指で6個と伝える。すると後から出てきたより腰の曲がったばーちゃんが部屋の奥へと消えてしまった。もう1人のばーちゃんが機械でソフトクリームをコーンの中に巻いてゆく。

 数分後奥の部屋から再び現れたばーちゃんに「はいこれどーぞ」と出されたのは、鮫皮にもりもりとおろされた生わさび。わさびソフトとはてっきりわさび味のソフトクリームだと思っていたのだが、とんでもない。偽物ではなく、本物の生わさびなのである。

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「ね、辛くないでしょ?」

ニコニコしながらばーちゃん達が食べる僕らに聞いてくる。

「君たちは何処から来たの?」

そこからしばらくの間、小さな店には楽し気な笑い声が響いた。

 ばーちゃんの店というシンプルで目立たない看板は、都会では生きていけないのかもしれない。でもそれでいい、人の少ない観光客もあまり来ない、静かで落ち着いた日光の地にとても馴染んでいる。今日、誰かあの看板に上手くひっ捕まえられてしまった人はいるのだろうか。思い出すと心がなんだか和やかになる。

日光旅 枯れ果てた植物園

 山形県米沢から栃木県日光市まで遥々伸びている国道121号線、その道路沿いの森の中に上三依水生植物園はひっそりと身を据えていた。約22,000平方メートルの園内に植えられた約300種の花々は春先から夏にかけて一斉に花開き、訪れる人の心を癒す。

 しかし僕らが訪れたのは10月中旬。花など殆ど咲いていなかった。冬を前にもうどれもこれもほとんどが枯れていた。葉は黒ずんで剥がれ落ち、茎は萎れて俯いている。花の名称が書かれた小さな白い板の看板は、墓標の様に花壇の至る所に突き刺っている。“季節外れ”。もう誰がどこをどう見ても季節外れだ思うであろう廃れ様であった。

朝食を食べ終えて周辺の散策をしている時に、せっかく来たのだからちょっと寄ってみようと軽い気持ちで僕らは寄ってみたのだ。通常500円の入園料も300円まで値下がりしていた。それでも僕ら以外にお客さんは居なかった。

枯れ果て、寂しげに横たえる植物達を眺めながらしばらく歩いていると地面に丸くうずくまる人影が遠目に見えた。こんな所で一体誰がなにしてるんだろう・・・ふと興味を惹かれた僕はその丸くうずくまる人に近寄って行った。お婆ちゃんだった。お婆ちゃんが片手に鎌を持って草を刈っていたのだ。

「こんにちは~、草刈りですか」

僕の言ったその声で鎌を持つ手を止め、婆ちゃんはハッと顔を上げた。

「あらあら、こんにちは」

婆ちゃんは鎌の刃で軍手にくっ付いた泥を削げ落しながら話し始めた。

「そうよ、こうやって刈らないと春に草ボーボーになっちゃうの。綺麗な花園の方がいいでしょ?だから私は春に向けて草刈りをしているの。朝から1日ずっと・・・1日ずっとよ?腰が痛くて痛くて・・・それに何よりも飽きちゃうのよね。でも、ありがとう!こうして兄さんみたいなお客さんが話しかけてくれることが嬉しいの!それが何よりの楽しみなのよ。お兄さんは何処から来たの?」

皺くちゃな顔がだんだんと笑顔に変わっていった。そして嬉しそうに話すお婆ちゃんは花の様に輝いていた。僕はしばらく座って話を楽しみ、その場を去った。話しかけた時のあの笑顔が今でも忘れられない。

草花が枯れ果て、寂れた植物園。そんな園内を見回してみると、至る所に体を丸く丸めたお婆ちゃん達が草を刈っていた。

日光旅 森に呼ばれた朝

   今思えば、あの引き寄せられるような感覚は凄いものであった。それはなにか見えない紐でぐいぐいと引かれているかのようであった。

 

   10月16日の日曜日早朝の事であった。僕は叩き起こされたかのように突然はっと目が覚めた。皆まだ気持ちよさげに眠っている。部屋は暗くまだ夜が明けていないことが分かった。普段ならばそこでもう一度布団にもぐりこみ、再び眠っていただろう。しかしそうはしなかった。頭はボッとしてはいたがためらうことなく布団から抜け出して、暗い部屋の中を速足で戸口へ向かった。時計を見ると5時を過ぎたばかり。サンダルを左右間違えて履いたことなど気にもせず戸口の扉を勢いよく開けて、まだ夜が明けていない青暗い外へ僕は飛び出した。辺り一面に薄い霧が立ち込めていた。キンとする冷気が肌を突き刺し、吐く息が白い。バンガローの前を横切る一本の道、その道路の真ん中に立ち留まり、左右を見渡した。右手に伸びる道(昨日夜中に歩いてきた駅へ続く道)は、古い民家が両側に立ち並び、町の中へ続いている。続いて左手を見た。道の片側には数件のバンガロー、もう片側には畑が広がっている。道は真っ直ぐ数十メートル程続き、その先には霧を被ってかすむ森が広がっていた。道はその森の中に続いていた。左右反対にサンダルを履いていること、上着を取りに戻ることも忘れて僕は迷わずに左へ歩き出した。

夜明けの冷えた空気が服を突き抜けてくる。鳥肌が立ち、両腕を互いにスリスリと擦り合わせる。それでも体はどんどん冷えてきて、体温を温める為に僕は走った。パタパタパタとサンダルが音を立てる。あまりの走り難さにサンダルを途中で履き直し、再び走った。

特に目的があるわけでも、目指すところがあるわけでもなかった。ただ森の中に無性に入りたかったのだ。そうして間もなく森の中へ入っていった。繁茂する枝葉でより森の中は暗く、シンと静まりかえっている。コンクリートの道は草が茂るアスファルトに変わった。朝露に濡れた草の葉が足をペちょりと濡らすが、そんな事など構いやせず、歩を進めていった。どこに続いているのか分からない。ただ引き寄せられるように奥へ奥へと体が引き込まれてゆく。起きてまだ間もない寝起きにも拘わらず、心は妙に安らぎを覚えていた。

道は森の中に延々と続いているわけでも無く、いくらか進むと立ち入り禁止のロープに行く手を阻まれた。僕はようやくそこで歩みを止め、立ち止まった。生い茂る木々が周囲を囲む薄暗い森の中、心地がよい。ロープが無ければどこまでも行ってしまったかもしれない。それほど森の中に引き寄せられていた。

しばらく森の中でたたずんで、いよいよ寒さに耐えられなくなり元来た道を引き返した。森を出ると、空には雲がかかっていたが辺りはもう大分明るくなっていた。バンガローに戻ると、もう皆起きて布団を畳み朝食を作り始めていた。僕は何事も無かったかのように、それらに加わった。森に入ってから続いていた心の弾みは消える事無く、しばらくの間続いていた。

 森には決して目に見えぬ不思議な力がある。この日それをひしひしと感じた。なんだかいつの日か俺は・・・深い深い森の中に入っていってしまうんだろうなと漠然とした予感が頭をよぎった。