流れる生命
僕の今住んでいる小さな集落は、谷間に静かに佇み、四方を山々に、広がる雄大な大地に囲まれています。
それらは豊かな贈り物を毎日僕らに届けてくれます。
夜が明けて外に出ると、今では秋の澄み切った空気の中、山の背から顔を出したばかりの朝日が、暖かく清い日の光を全身に浴びせてくれます。
時に大地から立ち上る霧が、辺り一面、白一色の大気となって世界を包み、おとぎ話の世界に居るような幻想的な気分にさせてくれます。
紅葉に染まりゆく木々の間を走り抜けてくる風が、毎日、僕の元に深まりゆく秋の香りを運んできてくれます。
森が育んだ水が川となり、流れ、踊る水音に、風が木や草の葉が揺らし、その葉音が大地の歌となり、耳を大いに楽しませてくれます。
限りない生命の美しい営みを、その姿で、音で、色で、香りで語ってきてくれます。
毎朝毎朝そんな贈り物に包まれて、僕らは素晴らしい一日を迎えるのです。
皆さんも不快なニュースに溢れ、エネルギーを大量に使うテレビを消し、その代わりに広大で美しい世界を見てから一日を迎えてみてください。
1ヶ月程前、僕は土を耕し、白菜や大根、小松菜や野沢菜等の種を撒きました。
それはゴマ粒程の小さな種でした。
そんな小さな種から本当に芽が出るのだろうか・・・そんな不安と、確かな期待を胸に、毎日芽が出るのを待ち続けました。
それは日々の暮らしの中の、小さく、それでいて力強い楽しみの種でもありました。
そして彼らは、堅い殻に、僕の不安を見事に破って、小さな芽を土から出しました。
暗く、深い眠りから目覚め、大地から広大な空へ向かって顔を出した芽。
生命力に溢れるその姿は、輝かしい喜びそのものでした。
彼らは肥料も何も与えなくとも、葉を虫達に囓られても、負けることなく力強く、毎日ものすごい早さで成長してゆきます。
一体あの小さな種のどこにこんな力が潜んでいたのか・・・生命の神秘を彼らはその体で、表現しています。
奥会津に引っ越し、自分達で食べるものを少しずつ作り始めてから、日々沢山のことを大地から教わりつづけています。
僕らは生きるために、毎日他の生き物の命を頂き、食べています。
お米に野菜に豆に魚・・・彼らを食べた瞬間、彼らは僕の一部となり、僕自身となります。
小さなお米一粒一粒が、体の中で燃え、それが肉となり血となり、さらには感覚となり、思考となり、言葉となり、呼吸となり、足の歩みとなり、手の動きとなり、僕の中で更なる生となってゆきます。
自分で食べるものを育てると言うことは、自分自身の思考を、言葉を、文章を、足の歩みを、命というものを育てるということなのだと、育つ野菜達が教えてくれました。
自分自身を作るということを、多くの人達が他人に委ねてしまっているこの世の中において、自分の人生を生きる為に、食べる物を自分で作ると言うことがどれほど大切なことなのかを教えてくれました。
また、僕らは食べた命を、幸せにすることも出来るのだと教えてくれました。
例えば、お米が今までに見られなかった世界を、僕らは見せてあげることが出来るのです。
お米が稲穂に付いたままでは、大地に立ったままでは決して見ることが出来ない景色に、世界を、僕らが食べることにより、その命を体に宿して生きることにより、見せてあげることが出来るのです。
人との間で広がる楽しい会話、他の地に足を運んで見る美しい景色、布団の中で眠る心地よい眠り、生きているという躍動感・・・人間でしか味わえない世界を、それらお米が今まで体験できなかった世界を、お米に見せてあげられるのです。
それはお米の命の昇華そのものなのです。
意識を思い切り広げ、自然界に世界を見てみると、その命の昇華というものは、今この一瞬の間にも、ありとあらゆるところで、ビックバンの様に起こりまくっていました。
水は宙を漂い、雨となって大地に染み込み、川となり大地を流れ、海となり地球を潤し、木となり地を支え、動物となり地を駆け回り・・・水は多くの生き物たちの命を育みながら世界中を旅しています。
蚊はトンボに食べられて、野山を駆け回り、トンボは鳥に食べられて、さらになる広大な世界へと広がって生きていきます。
今までずっと水の中で生きていた鮭は熊に食べられて、大地にあがり、森の中を歩き回ります。
芽生えてから動かずに生きてきた草は鹿に食べられて山々を駆け回ります。
微生物は虫達に食べられることにより虫達の世界を体感し、虫達は動物達に食べられることにより動物達の世界を体感し、動物はさらなる動物に食べられ、食物連鎖はありとあらゆる命を成長させ続けています。
この地球は一瞬一瞬その深みを増しながら成長し続けているのです。
僕らの体には、今までの人生で食べてきた果てしない数の命が宿っています。
食べられた彼らは僕らの体となって、どんな生き方を望んでいるのでしょうか。
周りを見ずに考えず、自己の欲を第一に、生きることでしょうか・・・。
地球に負担をかけ、汚し続けることでしょうか・・・。
食べた彼らの命を思い切り使い、地球という星を、生きとし生ける全ての生き物が調和に満たされ、緑溢れる星へと作っていくことでしょうか・・・。
今何をするべきか、地球が僕たち人間に何を必要としているのか。
日々の生活で出来ることは何か。
静かに静かに自分達の心と体に、耳を傾けてみてください。
食べて体に宿っている彼らの望む生き方をすれば、彼らは全力で僕達の力となってくれるはずです。
それは食べられた彼らの最高の供養でもあり、幸せそのものでもあり、僕らの幸せでもあります。
食べる前に皆が言う、「いただきます」という言葉。
その本当の意味を自分自身で深く感じ、食べ物を残さず食べて終わりではなく、その後へもその感謝の思いを行動として繋げていきましょう。
蜜蜂達は寒さが鋭さを増してゆく世界の中で、冬を前に、最後の蜜集めを最後まで賢明に続けています。
もう少しで冬支度をし、蜜蜂達は越冬へと入ってゆきます。
周囲数キロに栄える草木の命が、巣の中に蜜として凝縮し、次の命へと繋がってゆくのです。
この世界は、大きな川のように、生命が留まることなく遙か昔から流れ続けているのです。
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蜂蜜物語
ある晴れた日の朝のこと。
深まる秋の空気の中、庭の草をいじっていると、一本の草の花の先にふと目が奪われました。
花の先には、絶命し、干からびたハエが一匹止まっていたのです。
蟻等に食べられることなく、まるで彫刻の様に、命の尽きたその体をこの世界に留めていました。
その小さな物語に心を奪われ、僕は草を千切って家の中の花瓶にさしました。
夜、ランプのもとで本を読んでいる時に、朝、コーヒーを飲んでいる時に、ふとそのハエが目に入ると、この世界を自由に飛んでいた頃のハエの姿に、心が自然と広がっていきます。
まるで一瞬にして、ハエの小説を読んでるかの様に。
小さなハエが、日々の一時をなんと豊かにしてくれることでしょうか。
日に日に秋の色を深める中、今日は山へ栗拾いに行きました。
栗は沢山落ちていましたが、虫や動物達の方が一足早かった様で、食べカスばかりでした。
それでも草をかき分け、いがいがに刺されながらもその残り物の中から食べられそうな栗を探していきます。
栗の運命は厳しいものです。
何百何千という栗を実らせて落としても、一体どれ程の実が、他の生き物達に食べられることなく芽を出し、他の植物達との厳しい生存競争に勝って、大木へと育っていくのでしょうか。
目の前に立つ一本の栗の木は、幸運の木であり、そして積雪3mを越す雪深いこの奥会津で生き抜く強靭な生命を宿す木でもありました。
森に山を覆う草や木々。
栗に限らず、それら一本一本が尊き命でもあります。
草の先でミイラとなったハエ、多くの命を育む栗の木、夕焼けに輝く湖面をライズする魚達、秋の香りを乗せて吹く風・・・
僕らの身の回りにある世界、自然は、一瞬一瞬変化し続ける、生きた芸術です。
蜜蜂達は、蜜を集めます。
絶命したハエが止まる草の花から。
力強く生きる栗の木から。
何千何万という数の草木から。
一本一本壮大な物語を秘めた草木から。
その小さな体で蜜を集めています。
膨大な生命の物語と共に。
蜂蜜はまさにこの地球の命の滴です。
生きるということは、彼らのその生きる力を得るということ。
食べた彼らの命を全て背負っていくということ。
奥会津の森
蜜蜂と友達
僕の友達には、常識にとらわれずに生きている、面白い人達が沢山居ます。
秋のささやき
秋の山を歩く。
草や木の葉が赤に黄に染まっていた。
葉を覆う朝露が、陽に照らされて輝いていた。
朝の目覚めの喜びと、葉の散る間際の寂しさを吸収し、水は大気に散ってゆく。
森の様々な感情を含んだ水は、この世界の多様性の中に染み込んでゆく。
秋はどこか寂しくなる。 それは終わりゆく多くの命から伝わる感情からくるのだろう。 風に運ばれてくる香り、日に日にか細くなってゆく虫達の声、弱まる太陽。
世界が眠りにつこうとしている。
色々なことが渦巻いて、乱れていた頭の中が歩くうちにすっきりしていった。
葉が風に吹かれて散っていた。 散った彼らを懐深き大地は受け止めている。
散る間際に、こんなにも美しく輝き、山を染め、人々の心を癒してゆく草木の葉。
人生の終わりも、こんな風に散れたらどんなに幸せで最高だろう!
目指す場所の1つでもある。
蜜蜂のささやき
夏の間、雨が全く降らず、畑も森も山も乾き果てていたここ奥会津では連日、雨が続いています。
空が今までの分の埋め合わせをするかの様に。
しとしと、しとしと・・・瑞々しい音を奏でながら、雨は乾いた大地を一滴一滴潤しています。
畑に行こうと戸を開け、雨が降っていると、外に出ようとしていた足が一瞬躊躇してしまいます。
そんな雨の中でも、蜜蜂達は今日も巣を飛び立ち、雨粒に打たれながら花々の蜜を一生懸命に集めています。
僕ら人間と比べ、遙かに小さな蜜蜂達にとって、雨粒は大変大きなものです。
空から散弾の様に降り注ぎ、一粒一粒が勢いよく蜜蜂達の羽を、頭を、小さな体を打ちつけてきます。
巣の為、幼虫の為、他の蜂達の為に、自分達の生命が途絶えないように、そんな過酷な雨の世界へも、蜜を集めに飛び立っているのです。
蜜蜂は小さな偉大なる冒険者ですね。
ここ最近、巣の見回りをしていると必ずと言っていいほど、巣は数匹のキイロススメバチの襲撃に遭っています。
スズメバチも生きるために、蜜蜂を捕らえようと必死に巣の周りを飛び回っているのです。
そんなスズメバチを僕らは網で捕まえ、ピンセットで摘まみ、蜂蜜に漬けます。
自然界の猛者であるスズメバチのエキスが、浸透圧の高い蜂蜜に溶け出てくるのです。
(写真は40匹程のスズメバチが浸かった蜂蜜です。舐めると、毒が溶け出しているために苦みがあり、舌が痺れます。1年程熟成させると、その苦みが旨味に変わり、極上の蜂蜜となります。)
マタギであり、自然を愛する昭夫さんは、小さな命でも無駄にはしません。
蜜蜂の大敵であり、人々に忌み嫌われてしまう、そんなスズメバチも本当は僕ら人間を助け、生活を支えてくれています。
畑の野菜につく芋虫や、害虫と呼ばれている多くの虫達を毎日食べてくれているのです。
ジャングルが大好きで、学生時代に9ヶ月間程、僕はブラジルのアマゾンに住んでいました。
その時に、ベネズエラとの国境付近の、美しい高原地帯で、農薬を使わず、有機農業を営む日本人のおじさんと出会いました。
そのおじさんの農園の中や近くの林には、肉食性の蜂の巣が沢山あり、ぶんぶん、ぶんぶんと羽音をたてて蜂達が畑を飛び回っていました。
「この蜂達を駆除しなくなってから、農薬を使わなくても虫に食われることなく作物が良く育つようになったんだ!」と蜂達に囲まれながらおじさんは語ってくれました。
コナンドイルが描いた小説「失われた世界」の舞台となったギアナ高地から吹く、太古の香りを含んだ涼しい風に、そのおじさんの語った言葉はなんと心地よく、心に響いてきたことでしょう。
その響きは今でも僕の中で響き渡っています。
スズメバチ達が与えてくれる恩恵は、虫達の数の抑制だけに留まりません。
スズメバチよりも大きな生き物の餌となり、彼らに命を受け渡し、生かし、この地球の生命の多様性に大きく、大切な貢献をしているのです。
食べ物を食べ、人と話し、行きたい所に行き、今こうして幸せに僕らが生きているのは、目に見えない、膨大な数の小さな命の営みがあってこそなのです。
彼らの幸せは、僕らの幸せでもあります。
スズメバチを見た瞬間に殺気を覚え、殺さなきゃ!と思わずに、彼らと敵対せずに、上手く共生出来る世界がそのうち訪れてくれることを願います。
話が逸れてしまいましたが、蜜蜂の巣箱を観察していると、壁にはなにやら黒いものが沢山付着しています。
夏の間、こんなものはついていませんでした。
これは蜜蜂達の糞なのです。
「ここに良質な餌があるぞ」と仲間達に教える為にスズメバチがつけていくフェロモンの匂いを消す為に、蜜蜂達が糞をわざとつけているのです。
かつての人間がそうであったように・・・、糞をも利用し、その生活に一切の無駄を出さない彼ら、蜜蜂。
消費過剰な社会生活を営む僕ら人間に、この地球で生きていく上で本当に大切なメッセージを、その小さな体で、命を張って、賢明に毎日毎日訴えてきます。
忙しい手を少しだけ休め、その微かなメッセージにそっと耳を澄ましてみましょう。
きっと何か心に響くものがあるはずです。
お弁当
お弁当。
容器は、漆塗りの曲げわっぱ。
幼稚園時代に買ってもらった大切な曲げわっぱだ。
火力を間違えて焦がしてしまった玄米に、誕生日プレゼントに梅干し仙人さんから貰った梅干し。
草が伸び放題のジャングルと化した庭で、強靭に育ち、採れた無農薬無肥料のトマトにズッキーニにきゅうり達。
今の季節に、生活に、仕事量には、命が重く、エネルギーの強すぎる肉を食べる資格も必要もなく、玄米と野菜達だけで十分生命を維持し、元気に思い切り生きることが出来る。
肉は食べない、入らない。
肉の油がつかないので、地球に生き物に僕ら自身をも壊す洗剤なんか使うことなく、曲げわっぱは手で洗うだけで綺麗になる。
これらは、僕の一部となり、僕自身となる。
小さなお米一粒一粒が、体の中で燃え、昇華し、それが肉となり血となり、感覚となり、思考となり、言葉となり、呼吸となり、足の歩みとなり、手の動きとなり、更なる生となり、僕は生かされてゆく。