草むらの卵
3羽の鶏が家族入りしてからそろそろ1ヶ月位たつのかな?
玄関を出ると彼らはいつでも何処からかパタパタパターと元気よく駆けてきて、僕の足元に集まってくる。
畑を弄っているときも近くで草を、虫をついばみながら戯れ、何処にいくのにも必ず僕の後をついてくる。
その自由なる姿は愛くるしいものである。
生きることにおいて僕が大切にしていることの1つ、それは「自由」だ。
回りから絶えず押し寄せてくる巨大な波に飲まれても、決して折られず、揺らがない確固たる芯を持ち、その芯を軸に、自分自身の目で世界を見、判断し、心に従って真に生きていく。
その中にこそ自由があると思っている。
僕はこれからも自由を愛し、自由に生きていく。
だからこそ鶏達も縛られずに自由に生きてほしい。
なので、鶏は放し飼いだ。
自由気ままに家の回りを駆け回り、寝たい時に寝、雨が降れば柿の木の下や屋根の下、好きな所で雨宿り、好きな草を食み、虫を見つければ追いかける。
走り、寝、食し、鳴き、鶏達のその自由なる生命は輝きそのものである。
そんな鶏達と共に生きるようになり、僕の日々の仕事が1つ増えた。
毎朝の卵探しだ。
時に木の根元に産み、物影に産み、草むらに産む。
ここを定位置にしたかと思えば次の日にはそこには生まなくなり、毎日見つけられる時もあれば、卵を見つけられない日が何日も続くこともある。
ここ最近は卵を全然全然見つけられなくなった。
3羽いるのに、見つけられても1個だけ。
おかしい。最近やたらと多いカラスにでも食われているのかも・・・と思い始めた今日、草の影に11個の卵を見つけた!
それは草むらに眠る自由なる卵である。
自由なる生命を食べてもらたく、近所の方、いつもお世話になっている方々の元へと卵は散って行った。
食べた瞬間、卵はトロリと広がり、口の中を隅々まで行き届く。
きっと自由を感じるだろう!
明日も見つけられるといい。
朝という輝かしい世界の始まりに、卵探しという面白みが加わった。
地球採取
日に数回、僕らが必ず行く場所がある。
桑の木の下だ。
見上げると、いつでもそこには熟し、黒々と輝く桑の実が実っている。
木の下は言うまでもなく涼しい。
生い茂る枝に葉が生きた傘となり、昼の強烈な陽射しを防いでくれる。
涼しいだけでなくそこは心身を和らげ、潤してくれる場でもある。
吹く風が木は揺すらし、実は静かに踊りだす。
陽光や雨の滴が実にまとい、天と地の恵みが織り混ざる。
視界には何十、何百という溢れる実が映る。
その内のたった一粒の元に手は伸びてゆく。
その行為は無意識のもの。
どの実を摘もうか等は考えることなく、感覚で摘み取ってゆく。
目を落とすと、地は紫色に染まっていた。
いくら美味しそうな実でも、動物や僕らにも食われずに落ちてゆくものもあるものだ。
枝に付いたまま乾燥し萎んでゆくものもある。
無数にある内のたった一粒の実の元に手が伸び、摘み採り、一つの体に入ってゆくことは、人と自然との小さな縁であり、奇跡でもあるのだろう。
それは毎日食べている全ての食事にも当てはまるもの。
日々食べている米の一粒一粒にも。
風がそよぎ、木々は心地よい音を奏で、鳥が鳴き、陽光が差し込む葉の葉脈が美しく、すぐ近くには蟻や亀虫、てんとう虫等の虫達がその命を全うしている。
心は自然の中に確実に溶け込んでゆく。
多くの生命を感じる中で食べる一粒の実。
その瞬間、魂は満たされる。
採集、それは地球の生命を感じ、自分自信と向き合える時間だ。
採集という行為は、文明の根が隅々まではびこり、感じることの難しい現代には、本当に必要な、人にとって大切な仕事なのだろう。
瓶に詰めて、初めての果実酒作り。
砂糖を入れた瓶
砂糖も何も入れない瓶
どっちが美味く出来るかな?
上手く出来るかどうか考える前にやりたいことにどんどん挑戦だ!
そして一人でも多くの人が自然と触れ、地球を感じ、この星の生命に愛を抱いてくれることを僕らは願う!!
風に揺れるハンモック
再び湖に飛び込んだ。
潜水して湖底を泳ぐと、夕日が線となって水に突き刺さっていた。
それは陸上では決して見ることの出来ない神秘的な世界だった。
暫く湖を満喫し、水から上がってハンモックに身を委ね、木漏れ日の下で宙に寝そべった。
風が世界に動き、音を与えていた。
森の音、山の音、波の音、様々な音で辺りは満ち溢れ、その中で眠り、本を少し読み、また眠った。
起き、目を開いてボーと空を見ると木々の葉一枚一枚が風に揺られ、生きていた。
栗の花の香りが微かに漂ってくる。
栗、栗栗。
あのイガイガ、あのホクホク感!
風が、はるか先の秋を運んできてくれた。
湖を揺らし、森を揺さぶり、葉を踊らせ、風は世界に命を吹き込んでいた。
その中でハンモックは揺れる。
風の世界、心地よすぎる世界だった。
贅沢で素晴らしい時間をありがとう✨
太陽と桑の実
涼しい早朝、桑の木に鳥が集って鳴いていた。
もうそろそろ食べ頃なのだろうか?
僕らが木の下に行くと、鳥達は一斉に近くの木々に散らばった。
喜ばしい食事を邪魔して申し訳ない。
見上げると、なっていた。
いくつかの熟した桑の実が朝日を浴びて、輝いていた。
小さな実、その1粒1粒に太陽があり、光り輝いていた。
その輝きこそが太陽であり、朝であった。
どんなに極小の実にも、極大な太陽が宿っていた。
食べると、桑の実を介して鳥達の歓喜、太陽の輝き、朝の全てが体に入ってきた。
魚は海を宿し、植物は大地を宿す。
この世界の全ての生命は、その体に心に森羅万象を内包している。
食べることとは、この世界を取り込むことである。
他所の地から運ばれてくるものではなく、今生きている地のものをたべ、その地に生きよう!
僕らは瑞々しい実を次から次へと口に入れていった。
うめぇうめぇ、うめぇ!!!
生きた食べ物を食した瞬間の喜びは飛び抜けている。
僕らは無我夢中の境地に入った。
パクパクパクパク熊の様に食ってゆく。
手は真っ黒になり、亀虫を気づかずに一匹食べ、口の中がとんでもないことになった。
鳥の為に残し、その木を去った。
朝のデザートは贅沢な森の恵み!
そこから始まる1日は、もう言うまでもなく絶好調!!
森の停留所
「バス停いらないか?」
集落の小さなラーメン屋のなかでおじさんに言われたこの一言が始まりだった。
僕は、集落のバスの停留所をそっくりそのまま貰った。
もう使われず、新しい道路を作るので壊してしまうそうだ。
まだまだ使える停留所、壊すのは勿体無く、変態の僕に言ったら飛び付いて来るだろうと思ったらしい。
おじさんの予想通り、僕は飛び付いてしまった。
バスの停留所を貰ったなんて人生で初めてのことだった。
自分の心に耳を傾け、真っ直ぐに生きれば、人生はやっぱり面白いなと改めて実感した。
面白く生きてれば面白いものが沢山降ってくる。
空は晴れた。
涼しい空気の流れる今日日曜日の早朝だった。
停留所の前に、師匠とその家族が集まった。
ユニックで停留所をそのまま吊り上げ、荷台にあげた。
停留所を上にしたトラックは走り、集落を抜け、山々の中に入ってゆく。
川音が響く、木々に囲まれた静かな地が見えてきた。
僕がこれから家を建てる地である。
外灯はなく、星空のきれいな場所だ。
停留所の基礎はそのへんに捨ててあったコンクリートのブロックだ。
曲がってる曲がってる!!乗ってない乗ってない!!もう少し後ろ!そうその辺だ!!
なかなか思うように停留所は基礎の上に乗らず、皆で力を振り絞って基礎を動かす。
面白かった。
またなに変なことをしているんだと人が沢山見にきた。
大の大人達が本気になって遊びだす。
その場の空気は一気に愉快な空気と化し、膨れ上がった。
大地も森も空も川も、木々に虫達、そこにいたもの達全てが僕らの作り上げた極上の意識に乗っかって来たことだろう。
それこそが世の中を変え、創る力である。
遊び場がたった!!
やった!!!
星空を見ながらの焚き火に、読書に、精神統一に、冬の猟の休憩場に、腹が減り、眠たく、干からびそうな旅人が来たときの寝床に・・・この小屋が秘めている底力は計り知れん!!
これからどんどん味付けしていくよー!!