旅する蜂ブログ

奥会津の地球暮らし

~マタギの見習い~ 自然を愛し、地球の詩を書き、奥会津の山奥で素朴に暮らす

雪山の毛虫

 その夜、空に雲は無く、近くに夜の輝きを霞ませる人工光も一切なかった。

透き通った空気の中、無数の星々が夜空一面をびっしりと覆い尽くしていた。

時々吹く微風が笹の葉をカサカサと揺らし、山の稜線の窪みに張られた小さなテントの中にスー…と入り込む。

ボーボーと音をたてて吹くバーナーの火がゆらりと微かに傾く。

バーナーの上にはコッフェルが置いてあり、キムチの香りを漂わせながらグツグツと具が煮えている。

僕らはそれを囲って箸で突きながら、静かで心地よい夜を堪能していた。

雪山の装備の点検と、雪山トレーニングでの谷川岳・西黒尾根のことだ。

 

「うちに来るなまはげは皆よぉ、足がフラフラしてて酔っ払ってんだ」

なまはげを一度も生で見たことの無い僕にとってその言葉はとても新鮮で、現地に生きた人だからこそ言える重みがあった。

へぇ―――・・・と相槌を打ちながら、僕は頭の中でべろんべろんに酔っ払っているなまはげを思い描いていた。

「何でなまはげが酔っ払うんですか?」

「それはな、なまはげは訪れる家々で酒を飲んでけと言われるんだ。だからよ、家を回るたんびになまはげって奴ぁは酒を飲んでんだ。酔っ払ってても小さかった頃の俺にとっては恐ろしかったがな」

なまはげだけでは無かった。貧乏だった青年時代、無賃乗車で必死に駅から脱走した話、雪山で一夜にして1mの大雪に降られ、山に3日間閉じ込められた話、蟹族と呼ばれていた話・・・刺激的で心を躍らす話が次から次へと火を噴いていた。

なんたって、僕以外の3人は皆もう60歳を超えており、僕の3倍近くも生きているのだから。人が生きてゆく中で他の人と同じ人生など1つもあり得ない。人が生きた数だけ、この世の中には多彩な人生があるのである。僕は3人の口から出てくる物語にジッと耳を傾けていた。

    そして数時間にも及ぶ会話が落ち着いた頃、テントの外に顔を出して、ふと上を見上げてみた。

暗闇の中ぼんやりと聳える谷川岳の背後から、夜空に弾ける様に星が散らばっていた。僕はしばらくの間、滅多に見られぬその星空に見入り、その後テントに戻って眠りについた。

 翌朝(今日12月4日)は晴れ渡った空から、さんさんと陽光が降り注いでいた。

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暖かい太陽に恵まれて意気揚々とテントを畳み、下山しようとしたその時である。

足元の真っ白く傷の無い雪面に、黒くて枝の様なものが目に入った。

黒糖かりんとうを持ってきていた僕は、初めそれを見た時、「かりんとうを落としたんかな」と思った。しかしそんな所でかりんとうを開け覚えも無く、ましてやそこでザックを広げてもいなかった。

一体何だろう、なにかのうんこかな?と顔を近づけて見てみると、その黒い物がウニリッと動いた、かと思うと、一うねり、二うねりとうねって雪面上を移動していくのである。

毛虫だった。真っ黒い毛虫が、冷たい雪の上を這っているのである。

毛虫??毛虫が・・・こいつはなんでここにいるんだ・・・?

そう疑問が浮かんだ瞬間、僕の頭の中で想像が四方八方に弾け飛んでいった。

 

 毛虫は繭を作ってサナギで越冬し、次の年に成虫の蝶となって空を飛び回る。それが定められた毛虫の運命である(※全部が全部ではないが)。しかしそいつはそんな決められた運命に逆らい、蝶になる事を捨ててまで大冒険に出たのである。何百といる兄弟の中でまだ誰も行ったことない、足を踏み入れたことも無い谷川岳の頂だ。食べる葉も無く、大雪が降り積もる中で越冬する事など不可能である。そこへ行くことは毛虫にとってはつまり死を意味する。それでもそいつはありきたりの運命に逆らって命を捨ててまで冒険に出たのである。まだ見たことの無い世界に対する強く熱い念望に動かされて。秋、そいつは繭になることはせず、ずっと機会をうかがっていた。誰かが自分の傍に腰を下ろすのをジッと待っていた。しかし時は流れ、冷たい雨が降り、その機会は一向に現れず、刻一刻と寒くなる空気の中、柔らかく黒い身を丸めて震わせて、自らの命の限界が近づいていることをひしひしと感じていた。今日明日、もう来なかったら死んでしまうだろう・・・そう思った時、僕らの誰かがそいつの傍に腰を下ろしたのだ。そいつは“今だ!”と意気込んではっしとザックの布にしがみ付き、僕らと一緒に山の上へ上へと登っていったのである。今まで見慣れた生い茂る草木の景色は変わってゆき、ついには白銀の世界が辺り一面に広がったのである。

 

 どこへ向かっているのやら、ウネリウネリと小さな体をうねらせて、そいつは僕の足元の冷たい雪面を這っていた。僕はそいつをそのままいじくらずにそっとし、山を降りて行った。いじくることも何もできなかった。そいつの思うがままにしてやろうと。決まりきった運命を変えてまで冒険したのかもしれない、そいつに何だか親近感が湧いてしまったのだ。

そいつは恐らくもう間もなく死んでしまうことだろう。そして虫社会では今頃、山の頂へ旅立った、ある若い一匹の毛虫の話題で持ちきりだ。

 

※毛虫の物語は四方に飛び散った妄想の一欠けらである